2009年06月23日 00:10
少年少女文学(もちろん、少年少女のための文学ではなく、大人が読んでも十分に楽しめるのですが)の主人公たちは、逆境や艱難辛苦を乗り越えて「人間的に成長する」と信じられているのですが、例えば、マーク・トゥエインの小説に登場する有名なふたりの少年、トム・ソーヤーとハックルベリィ・フィンは「精神的な成長などという言葉は信じていない」し、物語の構造として「残酷なほどの好奇心と純粋な生への喜び」を登場人物の視点として確立することで、トゥエインは1800年代後半のアメリカをグロテスクに描き出したのですから、魅力的なふたりの少年が大人へと成長を遂げ、物語が大円団へと向かうことなどはないのです。
『秘密の花園』のメアリも『小公子』のセドリック・エロルも『小公女』のセーラ・クルーも、彼や彼女たちが本来もっていた純粋さや高貴さ、あるいは知性によってさまざまな苦難を乗り越えてしまうのだから、人間的な成長とは言えないし、そうであるなら、アーサー・ランサムの『ツバメ号とアマゾン号』の主人公、ウォーカー家の長男、ジョンが学校の夏休みを利用してイングランド北部の湖水地方に避暑に出掛け、そこでヨット遊びにただただ興じていたとしても、小説としての面白さが損なわれることはまったくない、と言い切ってしまいたくなります。
現代、というかアメリカのモダン・アートを語る上で欠かすことのできない知的な芸術家ジャスパー・ジョーンズがアーサー・ランサムの熱心なファンであったと、どこかの本で読んだときに、さもありなん、と思ったのですが、「小説など読んで何になる?」とか「もっと他に有意義なコンテンツ(メディア)が世の中にはたくさんあるではないか」などの意見に反論するコトは難しいのですが、まぁ、「豊かになる?」とだけ答えておくことにします。
本を読むことの豊かさは、もちろん、文章を読解することでその読者の「人間的な成長」を促すのではなく、本との甘美な戯れ、あるいは読書をするという経験そのものにあります。本のページを開かなくとも、何がどこに書いてあるのかがわかり、何度も何度も同じ文章を読み返してもその都度新鮮な気持ちに満たされる本、そうした本との出会いこそが「読書」と言えるのです。
『ロリータ』を書いたアメリカの小説家ウラジーミル・ナボコフは読書について面白いことを語って(手元に参照する本がないために、読んだ記憶を書きます。もし、内容に間違いがありましたら、ご指摘下さい)います。
ナボコフは、「はじめて小説を読むときは、目を運動させなければならない。そのため、文章を純粋に読むのではなく、何がそこに書かれているのかをまず目の運動によって理解しなければならない」というようなことを書いているのですが、これはつまり、豊かな読書の体験を得るためには、既に何度も何度も「文章をすべて憶えてしまう」ほど読むことが大切で、いつどこにいても読書ができるようになってこそ、最良の読者と言える、というわけなのですが、もちろん、あらゆる優れた小説は「読者」を選びませんから、読み手はどのように本を読んでもいいのです。
ライブチャットの記事でも書いたことですが、ライブチャットを愛し、ライブチャットから愛されることが大切であるのと同じように、本を愛し、本から愛されることが「豊かな読書の体験」であると言えます。
アーサー・ランサムの著作を読むと、彼が本から愛され、本を愛していたことが十二分に伝わってくるのです。



はてなに追加
MyYahoo!に追加
del.icio.usに追加
livedoorClipに追加